こんにちは、ぶちょうです。
先日のトランピオレビンに続きINNOから新規リリースされた、
アドバンカラーのハチロクレビンをご紹介です。
早速モデルを見てみましょう。
同じ85年のグループA規格に製作されたハチロクレビンながら、
トランピオの方とは違ったパーツ構成が特徴となっております。
パッと見でも結構変わった箇所が多い事に気づくことでしょう。
サイドスカートが新たに追加されました。若干ですが車高の落ち度が更にUPし、
トランピオレビン以上に下へ車体が下がっているような節を感じさせます。
バイナル関係は派手な色づかいであるアドバンカラーだけあってソリッドな質感。
砲弾型のエアロミラーが装備されており、トランピオとの差別化を図っています。
エアロミラーは元々メッキ調の塗装が施されている為か鏡面処理はありません。
良い個体を掴めたのかサイド化されたマフラーのクオリティもかなり高め。
リヤにかけて真っ赤に染められたボディ、
別パーツのテールランプはトランピオと同様の仕上がりが施されています。
バンパーやウイングもボディと同色となり、一体感のある造型が展開されていますね。
この他牽引フックが両脇1つずつの、計2つがバンパー下に装備されています。
フロント廻りも2本になった牽引フックを手始めに、
アドバンステッカーの着いたヘッドライトカバーに前期ウインカーレンズ、
グリルの切れ目も非常にシャープな成型でディティールがスゴい。
バンパーのインテークはマット調の塗装で表現としているもよう。
前後バンパーに装着されている牽引フック。
こういう細かいトコも再現されているのはホントスゴい拘りようです。
シャーシの仕上がりはトランピオレビンと同様。
ホイールはメッキ塗装のエンケイ製の8スポークホイールが装着。
ワタナベの8スポークにも似た形です。
この価格、やはりハチロクの人気を見越してか本来より少し高めなんですよね。
黒に赤いラインで描いたハチロクのCGがまたカッコいいですね。
台座デザインは従来のINNOに則したもの。
さて以前トランピオレビンでは見れなかった内装ポイントですが、
ちゃんとハチロクにもメーターパネルがありました!
形状からして競技用のタイプに差し替えられており、色鮮やかなインパネを演出。
INNOの内装クオリティはやっぱりハチロクでも健在でした。
公式からストリート仕様のハチロクレビンがリリースされる事が明らかになりました。
かつて市販タイプのハチロクは京商がコンビニミニカー設立初期に造ってましたが、
その後他方からわずかにモデルが製作されたに留まって以後音沙汰ナシでした。
だからこの時代になって一段とクオリティが強化されたミニカーの一つに、
とうとうハチロクが加わるというのは非常に期待値が高いですね!
願わくば2ドアノッチバックの方も出してくれるような事があれば・・・!w
それでは今日の実車話を。。
1985年のJTCがトランピオレビンが番狂わせを演じてみせた開幕戦のその裏で、
これまたハチロクレビンを用いた一つのチームのストーリーを話してみましょう。
アドバンカラーにボディを染め上げた、25号車ハチロクレビンをドライブするのは、
鈴木恵一/土屋圭市の「2人のケイイチ」コンビ。
土屋選手は古くからレースに参戦している大ベテランドライバーとタッグを組み、
確固たる「レース道」を貫くチーム「土屋エンジニアリング」に属したのです。
「ドリフトキング」の名を持つ土屋選手がフレッシュマンレースを経て、
初めてプロのレースに参戦した記念すべきレースがJTCでもあるのでした。
しかし土屋選手はこれまでのレースと全く勝手の違う質の能力を要求され、
はやくもプロとアマチュアの違いを身を以て経験することになります。
いわゆる、「プロの洗礼」ってヤツですね。
「プロの洗礼」を浴びた土屋選手の属するチームはその結果にも表れていました。
開幕戦菅生でトランピオレビンがお立ち台に立つ一方、
25号車はリタイヤとなり、気づけば第4戦の鈴鹿までを通して「4戦中4戦リタイヤ」、
全く結果を残せずその状況は非常に芳しくない方向に向いていたのだそう。
かくもプロの世界ではそれこそ耐久レースとあらば、
チーム全体の力を以て、初めて優勝を勝ち取れるような世界であって、
アマチュア時代のように自分だけでどうにかなるモノというワケでもありません。
チームの態勢としても全てをパーフェクトな走りを続ける事を要求され、
プロならではの「チームプレイ」そして多くの制約に中々馴染めず、
グループAは色んな意味で自身にとって「試練」であったと、
その後の彼の自伝で書き連ねられてあります。
この状況の中土屋選手に多くの事を教えたのが先輩ドライバー鈴木恵一選手でした。
それぞれのコーナーに対するブレーキングやステアリングを丁寧に教え、
レースで勝つ様々なアドバイスを土屋選手に教えていきます。
プロたるもの、本来チームメイトであっても基本的には「敵」という存在であり、
「普通は教えてくれない」のがプロレーサーの常であると言われていました。
しかし鈴木恵一選手はそれとは違っていたワケで、
それは何よりチームで勝利を手にする為にたくさんの事を土屋選手に伝えたのでした。
フレッシュマンレースの世代が長かった土屋選手にとって、
確立していた自身のスタイルがクセで中々抜け出せず、
コンスタントなレース組み立てを出来るようになったのはもっと後だったようですが、
それら多くを教えてくれた事は本当に今でも感謝しているとつづっています。
一方土屋選手も独自で筋トレ、さらに超高温にもなる車内温度に耐えるべく、
日常的に車のヒーターをつけたまま(しかも厚着で)走り続けたり、
実にフレッシュマンレースの3倍近くにも上る体力を身に着けていきます。
そして時は最終戦、世界選手権レースが同時に組まれてある、
「インターTEC」と呼ばれるレースが、85年JTC最後のステージ。
ここまでずっとリタイヤばかりの結果に終わっていたチームにやってきた、
シーズン完走ナシに終わる若しくは走り切れるかの大一番レースが幕を開けます。
インターTECを通してヨーロッパから訪れた刺客「ボルボ240T」が、
上位クラスでは圧倒的な走りで他を一切寄せ付けないパフォーマンスを見せる一方、
ここまでのレースを通して「吹っ切り」のついた土屋選手は、全開で攻めまくります。
そのキレた走りはついに総合6位・クラス優勝という結果をもたらし、
プロ1年目にして初めてである悲願の優勝トロフィーを見事手にしたのです。
プロ1年目で最終的に優勝の座を射止めた土屋選手でしたが、
一つの面白さを見つけられなかったプロの世界と、
マシンが壊れても楽しかったアマチュアの世界との全く違う世界観から、
「ホントに自分が好きな事をやっているのか」を考えるようになったのだそう。
もっと自由に走りたかった当時の土屋選手は結局1年でワークスチームを後にし、
プライベートに戻る事を決めたさなか、
ある雑誌によって、土屋選手の次なる才能が新たに開かれようとしました。
それはレース一辺倒で生きていくより、
多方面の才能で生きていく事を土屋選手が決意した瞬間だったのです。
この話の続きはまた今度するとしましょう・・・
だいぶ長くなりました・・最後まで読んで頂きありがとうございました。
ハチロクのワークスマシンが出てほどなくストリート仕様の販売がほぼ確定し、
その辺りが出てからまたINNOにフォーカスを当てていこうと思います。
次回の記事も読みに来てくださるとうれしいです。
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それでは、また。